風営紳士録2.0

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歌舞伎町麻雀物語

文化としての麻雀

 

新宿・歌舞伎町の有名スポットといえば歌舞伎町シネシティ広場です

かつて、この広場はコマ劇場前広場と呼ばれていました

コマ劇場とは、2008年末まであった劇場で「演歌の殿堂」です

 

 

そのコマ劇場の裏手に夜な夜な芸能人が集まってくる麻雀店がありました

コマ劇場の出演者をはじめ、歌手や舞台俳優、喜劇役者など多くの芸能人・文化人が毎日集い、卓を囲んでいました

そんな古き良き昭和の時代に麻雀を愛した有名人をご紹介しましょう

 

 

 

 

 

演歌歌手・北島三郎

 

「演歌の殿堂」の地にある麻雀店(マージャン店)といってこの人を外すわけにはいきません。「さぶちゃん」こと北島三郎さんです。

「さぶちゃん」といえば、小さな子供を除いて、大多数の日本人が歌手の北島三郎さんを思い起こすことでしょう。

45年も前、私が高校生だった頃、同級生の北島くんもさぶちゃんと呼ばれていました。もちろん、本命は別の名前で、ただ姓が北島だからそのあだ名で呼ばれていただけですそのように、半世紀にもわたって多くの人々に親しまれ、芸能界で活躍しているさぶちゃんは、すごい!の一言に尽きますね。

その北島三郎さんが毎年公演していた新宿コマ劇場も閉鎖になりました。コマ劇場の自主製作・自主公演の最期を飾ったのは、北島三郎公演でした。

 

新宿コマ劇場といえば、日本の繁華街の中心、歌舞伎町の核となる劇場です。その劇場で毎年1カ月間の講演を40年近くにわたって続けてきたということがどれほどすごいことか。

公演自体が継続するということは、企画や運営がうまくいっているということで、多くのスタッフに支えられたからこその成功だったのだと思います。そのスタッフから絶大なる信頼を得ていたのが、偉大なるさぶちゃんだったのです。1ヵ月の公演の間、北島さんは必ずボーリング大会や麻雀大会を開いていました。その大会は、スタッフの慰労と交流を兼ねて開かれていたわけです。

麻雀好きのさぶちゃんは麻雀店を借り切り、コマ劇場のスタッフや出演者、バンドマンを招待し、「北島三郎杯」と銘打って麻雀を楽しんでいました。さぶちゃんのスタッフに対する優しい心遣いが表れていました。

コマ劇場の公演は独特のもので、演劇と歌謡ショーの2部構成になっており、演劇には由利徹、白木みのる、人見明、佐山俊二、東八郎といった浅草出身の麻雀好きなコメディアンが出演していました。

彼らは舞台の合間や公演終了後に、毎日のように麻雀をしていました。さぶちゃんも時折、卓を囲み、和気あいあいとリラックスしているようでした。そこは歌舞伎町の麻雀店で、決して怪しい風俗店ではありません。

最近、私の娘から聞いたところでは、高校時代の同級生に北島くんがいて、やっぱりさぶちゃんと呼ばれていたそうです(笑)

 

 

 

コメディアン・由利徹

北島三郎、千昌夫、吉幾三といった演歌界の大物歌手が新宿コマ劇場で座長を務めていたときは、必ずといっていいほど脇を固めていたのが由利徹さんでした。

 

その由利さんもさぶちゃん同様、大の麻雀好きで、コマ劇場に出演している日は毎日といっていいほど、劇場裏の麻雀店で卓を囲んでいました。

 

卓を囲むメンバーといえば、コントトリオの先駆けともいえる脱線トリオの南利明さんや、人見明さん、佐山俊二さん、関敬六さんといったコメディアン。時には漫画家の赤塚不二夫さんが顔を見せたり、旭輝子さん(神田正輝のお母さん)や花園ひろみさん(山城新伍の奥さん)のような女
優さんたちとも楽しく卓を囲んでいました。

 

コメディアン仲間と遊んでいる時は容赦なく「おしゃまんべ!」と言って大きな手であがっていましたが、女優さんと卓を囲んでいるとめっぽう弱く、「カックン!」と言って死んだふりをして笑いを誘っていました。

 

お酒を飲み始めるとウイスキーのボトルを軽く1本明けてしまう酒豪で、軽いギャグを飛ばしたり、スケベな話をしながら楽しい麻雀をしていました。

 

由利徹さんにとって麻雀は賭けごとではなく、仲間との憩いの場であって、リラックスするところだったように思われます。

 

宮城県の大工の家の9人兄弟の次男として生まれ育ち、中卒で上京。新宿の大衆劇場「ムーランルージュ」で喜劇の道に入り、第2次世界大戦で中国東北部で悲惨な体験を・・・。

そんな由利徹さんが晩年に色紙に書き綴った言葉は、「子供の涙は虹の色、喜劇役者の涙は血の色」・・・ドタバタ喜劇のコメディアンの姿からは想像もつかない言葉。

 

由利徹さんは大衆娯楽の風俗王ではなく、れっきとした喜劇王だったのです。そんな由利徹さんのそばには小柄で坊主頭の、そしていつも静かに笑っている酔っぱらいがいました。由利さんと同じ東北弁で、しかも酔っているせいか、どもりながら、由利さんの小間使いをしていました。その人は本名を斉藤清作という元ボクシング日本フライ級王者ですが、後に由利徹さんの弟子となった「たこ八郎」さんでした。

 

 

 

プロボクサー・たこ八郎

由利徹さんが卓を囲む傍らには、いつも小柄な坊主頭の付き人がいました。酔っているのか、焦点が定まらない眼差しでそわそわ・・・

でも、由利さんは麻雀店の店員に、「こいつは強いんだぞ!オレの車がそこの路地でヤクザに行く手を阻まれた時、『先生、ちょっといってきます』と言って、ほんの1~2分で4~5人のヤクザをたたきのめしたんだから。」

それもそのはず、その付き人は「河童の清作」と呼ばれた元プロボクシング日本フライ級チャンピオン・斉藤清作その人だったのです。

 

「河童の清作」はボクシングを引退後、由利徹の弟子になり、たこ八郎になるのでした。

 

斉藤が所属していたボクシングジムの同期にはファイティング原田がいて、東日本新人戦の準決勝で対戦することになりました。しかし、同門対決のため、斉藤が辞退し、原田は新人王に、そして世界チャンピオンに駆けのぼっていったのでした。

 

打たれても打たれても突進していく斉藤と、天性の才能とスター性を備えた原田との対決が回避された裏側には、「仮に原田が勝つにしても大きなダメージを受けさせてはいけない」というジムの判断が作用したものだと思われます。

 

 たこ八郎は由利徹の弟子になったものの、毎晩、歌舞伎町のゴールデン街や柳街を徘徊し、路上で寝ていたり、酔っぱらいとケンカしていたりで、その結果、変形した耳は酔っぱらいに噛み切られたものだという逸話も残っています。

 

 たこ八郎が飲み歩いた新宿ゴールデン街のクラクラには今も、たこ八郎の銅像が置かれています。店のマスター・外波山文明さんが『椿組』という演劇集団を主宰している関係で、多くの演劇人や作家が立ち寄る店になっています。歌人の俵万智さんもこの店でアルバイトをしていたようです。

 

1985年7月、『笑っていいとも』のレギュラーとして人気上昇の最中、真鶴の海水浴場でいつものように仲間と酒を飲み、すーっと海へ向かうたこ八郎が目撃されましたが、それは「河童」とも「たこ」とも呼ばれた男が海へ帰っていくその瞬間でした。

 

「たこで~す」斉藤清作、享年44歳。

 

 

 

女優・旭輝子

意外なことに麻雀好きな女優さんも多く、清川虹子、花園ひろみ(山城新伍の奥さん)、白木真理、高田美和など日本映画界が全盛だった頃に活躍していた女優さんたちがよく見かけられたものです。

 

旭輝子さんもその中の1人として、コマ劇場出演の際はたびたび卓を囲み、麻雀に興じていました。旭輝子さんといっても、最近は名前さえ忘れ去られているかもしれませんが、松竹少女歌劇団出身でエノケンこと榎本健一の映画にも準主役で出ていた女優さんです。旭輝子といってもピンとこないかもしれませんが、神田正輝の母親です。旭さんは相当麻雀好きだったとみえ、コマ劇場出演の稽古の時もたびたび舞台化粧のまま麻雀をしていました。

 

いつも背筋をまっすぐに、きりっと引き締まった女優の佇まいからは、麻雀パイを握った時の楽し気な表情は想像できません。同じ卓を囲んだ由利徹が満貫を振り込んでカックンと言いながらお馴染み死んだふりをするのを見ては、優しく微笑んでいました。

 

かれこれ25年前にもなるでしょうか、いつものように歌舞伎町の麻雀店では役者さんたちが麻雀に興じていました。すると、とても大きな黒いつば広帽子と真っ黒なサングラスで顔を隠し、黒のドレスで全身を包んだ小柄な女性が店に入ってきました。あまりにも場違いな雰囲気のその姿は、店の中にいた全ての打ち手を振り返らせたほどです。

 

それは1985年2月12日、当時アイドル歌手として人気絶頂の松田聖子との恋人宣言を神田正輝が発表するその日でした。いつもはシックで目立つとはいえない神田正輝の母親・旭輝子が、芸能リポーターから身を隠そうとした苦肉の策が、かえって目立ってしまったのが黒ずくめの姿でした。その2か月後、神田正輝と松田聖子の婚約が発表されたのです。

 

 

 

古き良き時代

いかがでしたでしょうか。今回は昭和の時代を中心に麻雀店(マージャン店)に集った有名人をご紹介しました。近年、麻雀は頭の体操にもなるとして、IT系のベンチャー起業家などにも広く愛されています。次回は経営者など麻雀を愛するビジネスパーソンも紹介していきたいと思います。それでは、また!

 

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