マラドーナに学ぶ手続的正義と風俗営業政策
神の手ゴール
皆さん、こんにちは!
東京都新宿区の風俗営業専門やたべ行政書士事務所です。
早いもので11月も終わり、12月を迎えようとしています。
GoToキャンペーン停止の是非や時短要請に揺れていた先週、スポーツ界レジェンドの訃報が届きました。
One of the most gifted soccer players in history, Maradona’s pinnacle of glory came when he captained Argentina to win the World Cup in 1986 https://t.co/NID0FcxUTN pic.twitter.com/qg8y6E0rVv
— Reuters (@Reuters) November 25, 2020
マラドーナ逝去によって、母国アルゼンチンでは国葬となり3日間喪に服したそうです。
各界からも突然の訃報を悲しむ声が寄せられました。
憎きマラドーナを、本当は大好きだった… “不仲のち親友”ペレ&宿敵ブラジルが嘆く天才の早すぎる死(沢田啓明)#海外サッカー #DiegoMaradona #RIPMaradona #Maradona #Pele https://t.co/gVRJoMeCqH
— Number編集部 (@numberweb) November 26, 2020
現役時代のマラドーナのプレーで有名なのが、1986年のワールドカップ・メキシコ大会準々決勝のイングランド戦での「神の手ゴール」でしょう。
ペナルティエリア内でイングランドGK選手と空中戦となった際、マラドーナが左手でボールをはたき込んでゴールしましたが、ハンドとして違反を取られずに得点が認められてしまったことです。
この得点で勢いに乗り、その直後に60メートル単独ドリブルでの5人抜きゴールも決めてしまいます。
試合の流れを決定づけたプレーでもあり、審判による違反の見過ごしから、神に赦されたゴールとして「神の手ゴール」と呼ばれるようになりました。
なお、ハンドによるゴールであったことはマラドーナ本人の述懐でも言及されています。
A look back to when @GaryLineker went to interview Diego Maradona about *that* moment.https://t.co/nKJx6PBd0D#bbcfootball pic.twitter.com/omeD3MtZMb
— BBC Sport (@BBCSport) November 26, 2020
手続的正義と実体的正義
皆さんは、マラドーナの「神の手ゴール」についてどう思いますか?
本人も認めた違反行為による得点での栄光など価値があるのでしょうか?
ワールドカップ優勝と言えば、サッカー選手にとっては最高の栄誉を意味し、試合では厳格な公正さと公平さが求められるべきものだとも思えます。
一方で、人間が行う以上は絶対に間違わず公正・公平に試合を行うことというのは限界があります。
さらに言うと、審判員自体が買収され、意図的に誤審をする可能性だって否定できません。
実際、1986年のワールドカップの数年前のフォークランド紛争ではイギリスとアルゼンチンが軍事衝突し、多数の死傷者を出していました。
紛争はアルゼンチン軍が降伏して終結していますが、当時のアルゼンチンの国民感情としてスポーツだろうとイギリスだけには負けたくないとの執念が根強かったことは想像に難くありません。
そのような試合であればあるほど、正義が貫かれ、公正・公平に実施される必要があるはずでしょうが、結果としてはハンドによる得点を認めてしまい、正義が守られなかったようにも思えます。
ただ、そんなことはありません。
ちゃんと正義は守られました。
正確に言うと、「手続的正義」は守られたということです。
それこそ、神様の目からみれば違反行為が明らかで得点を認めるべきではないのかも知れません。
嘘偽りのない真実としての事実を、法律などの世界では「実体的真実」と呼びます。
神様の目というのは、要するに「実体的真実」を見通す目ということです。
近年の映像技術の向上により、ビデオ判定などを用いることによって、神様の目により近い判定を行うことが可能になってきています。
ただ、こうした技術がどんなに向上しても、それは「実体的真実」ではありません。
コンピュータや機械だって故障が有り得ますし、人間が行う判定であれば尚更、判定ミスが生じ得ます。
だからこそ、我々は神様しか知り得ない「実体的真実」を人間は知り得ないという前提に立っているのです。
代わりに、「手続」を通じて事実を認定する「手続的真実」に依って立つことにしたのです。
ワールドカップ・メキシコ大会で言えば、ハンドの違反行為があったかどうかは「審判に判定させる」という「手続」を決めた訳です。
審判員が判定することが「手続」として定められた以上、この「手続」がしっかり守られたかの判断は神様でなくてもできます。
このような考え方は司法手続きをはじめ、法律家にとっては当然の考え方とされています。
私は「手続的真実」を通じた事実認定は神様の目を持たない人類が生み出した智慧であると思っています。
人間である以上、誰だってミスするものです。
ミスする可能性があると判っていながら、人間である審判に判断を委ねると決めた以上、誤審であったとしても審判の判断に従うことが「手続的正義」となるのです。
そして、マラドーナ率いるアルゼンチンは「手続的正義」を貫いた上で、見事優勝を果たすことになります。
風俗営業の手続的正義
翻って、現在のコロナ禍にある日本社会での「手続的正義」とはなんでしょうか。
11/30現在、未だGoToトラベルへの対象に関する方針について、国と東京都で責任の押し付け合いをしているようですが、GoToキャンペーン下での第3波襲来や感染状況悪化などへの対応が事前にルールとして手続化されていなかったからこそ混乱しているようにも見受けられます。
あくまで相手にGoToキャンペーン停止の判断を委ねようとしているのは、経済不況によるマイナスの影響が「実体的真実」として現実になったときに責任を負いたくないことの裏返しでもあります。
今回のコロナ禍での経済優先派と感染拡大予防派での対立の多くは、未来の感染状況という「実体的真実」をどれだけ正確に予測していたかを自分の主張の正当性の根拠としている方が多くいます。
感染収束という客観的事実が現実になってくると、経済優先派がコロナ脳どもめ、俺の予言は当たっていたと自画自賛していました。
感染拡大という異なる客観的事実が現実になってくると、今度は感染予防派が経済優先派を素人考えの情報弱者と罵倒していました。
どちらの識者も、本当に正しいのは自分の予測だと「神の手」ならぬ「神の言葉」のように「実体的真実」を予測し、あるべき対策の在り方を示してきたのは我こそと誇示したがる点で似ています。
「実体的真実」を言い当てることができるとするなら、まさに神の言葉を預かる預言者と言えるのかも知れません。
とはいえ、政府分科会や専門家の知見は、こうした預言者のような評論家より遥かに多くの情報を有していて、予測精度が高いことは疑いようがないと私は思います。
現在、開発されているワクチンによる抗体が本当に効くのかどうかも含めて不確実な、未知のウイルスと闘っている現状では、国や地方公共団体の政策が外れることだって十分予想できます。
その時に大切なことは現実の後追いで「実体的真実」との整合性を求めることではなく、不完全な人間の試みとしての「手続的真実」を追求することではないでしょうか。
営業時間短縮やGoToキャンペーン停止が感染拡大防止に効果があるかどうかは「実体的真実」の問題です。
ただ、どういった基準で停止するか、時短要請するか、国・地方のどちらが判断するかは「手続」の問題でしょう。
人知の及ばない「実体的真実」のレベルで責任を押し付け合ったり、現実の後追いで自分の発言内容が当たった部分だけを切り取って自画自賛するのではなく、「手続的正義」を通じてコロナに打ち克っていきたいものです。
営業時間短縮要請に応じる・応じない関係なく、全ての風俗営業はじめ飲食・娯楽サービス業に携わる皆さんにとっての「手続的正義」とは、営業許可・届出を行い、お客様・スタッフを感染させないよう感染予防対策を万全にして、自らの信念に従って営業を継続することです。
やたべ行政書士事務所は風俗営業に携わる皆さんをいつでも応援しています!
それでは、また!
“Only God can judge me”
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