風営紳士録2.0

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ゲームセンターなどの風俗営業許可・風営法改正前夜

日本のゲーム産業の黎明期

2001 年、CSK グループの総帥、大川功氏が亡くなり、莫大な財産がセガに提供されたという報道を目にされたと思います。

今や巨大な企業に成長したセガやタイトー、ナムコ、任天堂といったゲーム関連会社は、昭和 59 年改正のいわゆる「新風営法=風適法」の適用を受けてゲームセンターが「第8号営業」として規制の対象になったことによって、その存続が危惧された時期がありました。

 

あまり知られていませんが、セガやタイトーはもともとジュークボックスやウォッカの販売を目的として外国人起業家がスタートさせた会社です。

 

その後、コインゲームなどを手がけ、セガは「潜水艦ゲーム」で当て、タイトーは昭和53年に「スペースインベーダー」を発表し一大ブームを巻き起こしました。

 

インベーダーゲームの最盛期には、1日で 26 億円もの売り上げを記録したとのことです。タイトーの社長は、ユダヤ系のミハイル・コーガン氏で、1代で巨額の富を築き、病に倒れた後、妻子は莫大な財産を相続し、一躍、高額所得者の上位にランクされました。

 

インベーダーゲームで業界のトップになったタイトーでしたが、物事のすべてが順調に運んだわけではありません。

 

風営法施行後には、ゲームセンターの許可申請に関して警視庁からこっぴどく叱られる事件を起こし、税務署からもにらまれることになり、その事件の結果、株式の上場でセガに遅れをとることになりました。

 

一方のセガは、アメリカ人経営者のデイヴィッド・ローゼン氏がゲーム機販売会社の中山隼雄氏を経営陣に迎え入れ、急成長を遂げることになります。

 

中山氏は、ユダヤ人兄弟が経営するジュークボックス輸入会社 V&V を皮切りにゲーム業界に参入し、ビンゴゲーム機やメダルゲーム機を販売する会社を設立したり、「ちょっと危ない機械」の販売もしたようです。

 

ともあれ、インベーダーゲームは大人から子供までたくさんの人たちを夢中にさせ、繁華街のゲームセンターではピコピコという機械音が夜通し鳴り響き、少年少女の夜遊びが増え、遊ぶ金ほしさの恐喝事件まで発生して社会問題になりました。

 

その結果、この問題の解消と「セックス産業」規制を主目的として「風営法の改正」が進むことになります。

 

ゲームセンターの時代

 

ゲーム機業界では、外国人起業家によってスタートしたセガやタイトーが、インベーダーゲームのヒットにより、町中のゲームセンターをまさにインベーダーのごとく席巻していきました。そのほかのゲームメーカーもナムコが「パックマン」を、任天堂が「ファミリーコンピュータ」を開発し、現在のような大企業へと発展していくことになります。

 

ナムコは、会長兼社長の中村雅哉氏が中村製作所としてスタート。デパートの屋上に子供向けの木馬や遊戯機を設置したのを皮切りにゲーム業界に参入してゆき、後に映画の日活を買収したり、東京芸大や慶応代に4億円もの寄付を贈るなどして話題をふりまいてきました。

 

ご存じの方も多いと思いますが、任天堂は花札やカルタ、トランプの製造販売をしていた会社で、マージャン牌も販売していました。自動卓が普及する以前のマージャン店では、任天堂から牌やサイコロ、ポーカーチップなどを購入していたものでした。

 

その任天堂は、おもちゃ類のほかにルーレット台やブラックジャック台、ポーカー台なども販売しており、繁華街のゲームセンターの片隅では対人ゲームの疑似カジノゲームを楽しむ人たちもいました。

 

風適法施行前の 1984(昭和 59)年以前の新宿や渋谷の繁華街では、早朝の5時頃までゲームセンターが営業しており、多くの若者たちがゲームセンターで朝を迎えました。

 

ゲームに興味の無い方には信じられないかもしれませんが、ゲームセンターの疑似カジノでは換金が一切ないにもかかわらず、まるで碁会所か将棋センターに集まる大人たちのように、夜な夜な若者が集まり、ルーレットやブラックジャック、セブンスタッドポーカーなどのゲームを楽しんでいました。

 

トランプを使って7人まで遊ぶことのできるセブンスタッドポーカーは、手持ちのカードを少しずつオープンにしながら相手の手の内を予測するという、マージャンに似たゲームのため、競技マージャンのプロたちもゲームに参加していました。

 

そのようにゲームセンターが若者たちを夢中にさせているという状況があったため、「風営法の改正」で、ルーレットなどを含むゲーム機設置店が新たに8号営業として許可の対象に組み入れられることになりました。

 

 

遊びと規制のはざまで

 

1985(昭和 60)年2月 13 日、東京・新宿歌舞伎町では午後 10 時を過ぎた頃から街のネオンが少しずつ消えて、11 時にはほとんどの風俗店の看板の灯が消え、あたかも「戒厳令の夜」の様相を呈していました。

 

街には客引きの姿もなく、TV カメラとライトを抱えたマスコミ関係者の姿ばかりが目立ち、マイクを持ったレポーターも拍子抜けした表情で、深夜0時になるのを待っていました。この日が「新風営法(風適法)」の施行日でした。

 

新しい法律ではゲームセンターも風俗営業の仲間入りをし、毎日朝まで営業していた繁華街のゲームセンターも、深夜0時をもって閉店することになりました。

 

それまでゲームセンターで夜を明かしていた若者たちは、いったいどこへ行ったのでしょうか? ディスコでしょうか?

 

いいえ、ディスコも風俗営業 1 号か 3 号の適用を受け、午前0時には閉店しなければならず、ディスコに対してもたびたび警察の取り締まりが実施されていました。

 

それでも若者は新しい遊び場を見付けてくるものです。

 

新しい風営法では、新たにゲームセンターを許可の対象にしましたが、バッティングセンター、ボウリング場、ビリヤード場、カラオケボックス、映画館などは規制の対象になりませんでした。ゲームセンターから追い出された若者たちは、そういった規制対象外の施設で朝を迎えることになったわけです。

 

バッティングセンターにもボウリング場にも、ゲーム機は設置されていました。しかし、そういう施設の場合、面積要件によっては風俗営業第8号の許可の取得が必要ないという「法の抜け道」があったのです。

 

繁華街の経営者も、指をくわえて新しい法律を見ているばかりでなく、新しい業種を考え出してきました。その一つが「プールバー」です。

 

それまでの東京のビリヤード場は「四つ球」や「スリークッション」といったビリヤード台が主流でしたが、それを「ポケット台」に入れ替え、内装を豪華にし、カクテル類などのアルコールを置くことによって、よりファッショナブルな「プールバー」に生まれ変わり、それが若者たちの間で大流行することになります。もちろん、風適法の規制対象外の営業として、夜通しの営業が売り物でした。

 

しかし、深夜にアルコール提供を主体とした業種は、深夜酒類提供飲食店として警察への届出が必要であり、深夜酒類提供飲食店では、深夜の遊興禁止規定があるため、厳密に言えば違法な営業になっていました。

 

このように、若者たちの遊びの追求と、それに対する法律の規制は、いつも、いたちごっこの側面を持っているようです。

 

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